水子供養
みずこくようを考えている人達へ
京都の小さなお寺で‘‘水子供養”をさせて頂いております りけい でございます。
尊陽院にお参りに来られる方は それは熱心に、ただただ お子様のご冥福(ごめいふくとは 死後の幸福を祈り仏事を修すること) を願って 手を合わせておられます。
私は いつも、その様なお姿をみると心を打たれ、何かお力になる事はないだろうか、少しでも心が楽になって頂きたいと願い、色んな事を伝えたくなってしまい、ついついお話しをしてしまうのですが
しかし、これは、余計な事であると最近、反省しております。
つい最近の事なのですが
大事に大事に育てられていたお子様を亡くされたお母様とお話しをさせて頂きました。
暗くて悲しい内容ではなく、それは、希望に満ちた前向きな人生を歩まれようとしている内容のお話しでした。
私は どの様なお話しをしたらいいのか考えていたのですが、反対に勇気づけられ、沢山 気づかされました。
このお母様も 直ぐに、このような前向きな気持ちではなかったはずです。
苦労をして悩み悩み、何年も掛けて、やっと、今の素晴らしい輝きを手に入れたのだと思います。
お話しをしている時に ふっと、お釈迦様のエピソードが頭に浮かびました。
流産・中絶・死産 を経験された方々に是非 聞いて頂きたいと思い、ここに紹介させて頂きます。
ある村に、身分の低く人々に蔑まれていたキサーゴータミーという女性が住んでいました。
彼女は結婚して一人の子供が授かり、貧しいながらもささやかな暮らしを営んでいましたが、夫は、まもなく流行病にかかってしまい病死してしまい、子どもも程なく同じ病気で死んでしまいました。
彼女は悲しみの余り子どもの死を受け入れる事ができません。
死んだ子どもを抱き続け葬る事を許そうとはしないのです。
何日もそのような有様だったので、長老を始め村人達も困り果てておりました。
そこに丁度、お弟子を伴って、お釈迦様が通りかかりました。
村の長老はお釈迦様に事の次第を話しました。
お釈迦様は子どもの死体を抱いて泣き叫んでいるキサーゴータミーのもとへ行かれました。
彼女はお釈迦様を見るなりお釈迦様に言いました。
『お釈迦様、貴方は目覚めた方です。人と神々を含む全ての生きとし生けるもののなかで、貴方の上に居られる方はおられません。
どうか、この世の全てを知っておられる尊い聖者よ。貴方が真のブッタなら、死んだ我が子を生き返らせてください』と。
これを聞いていた人々は驚きました。
お釈迦様になんと言う無理難題を言う愚かな女かと非難する人たちもいました。
しかし、お釈迦様は顔色一つ変えずに穏やかに次のように仰せられました。
『キサーゴータミーよ。そなたの子どもを生き返らせてあげよう。ただし、それには、今までに一度も死者を出したことのない家の庭に咲くケシの実が必要なのだ。それを見つけて私のところに持って来なさい。そのケシの実で、薬を作ってそなたの子どもを生き返らせてあげよう』と。
キサーゴータミーはお釈迦様の言葉を聞いて喜び勇んで『この世で一度も死者を出したことのない家のケシの実』を家々を、村々を何年も掛けて巡り探しました。
やがて彼女は『今までに死者を出したことのない家』などというものはこの世になく、愛しき者との死別の悲しみは自分だけのものでは無いと気づきました。
『そうなのだ!悲しいのは私一人ではなかったのだ。お釈迦様はその事を私に悟らせようとなっさたに違いない』
彼女の中にお釈迦様にお会いしたいいう思いが込み上げ気がつけば、お釈迦様の居られる所に足が向いていました。
お釈迦様は死んだ子どもを抱き抱え額を撫でながら仰せられました。
『およそ、この世に生を受けたものは、誰しもその者にしか果たせない尊い役割を持って生まれて来るものだ。この死んだ子もそうなのだ。自らの死を持ってそなたを仏の道に導いたのだ。さあ 真心から、この子を旅立たせてあげようではないか』
其の時、彼女の心の中に、自らの悲しみを慈しむ心が芽生え、その心は全ての他社の悲しみを慈しむ心となりました。
やがて、彼女は出家して尼僧となり、自らの辛い経験を活かして、多くの苦しみや悲しみに悩まれている人々を救い、敬われるべき聖者の一人になりました。
‘‘テーリ・ガーター’’尼僧の告白より
これを読んで
何が言いたいのか正解は、無くそれぞれの立場で思いのままに感じて欲しいと思います。
お釈迦様は、直接的に教えを説いていない。
ゴーターミ本人が気づくように言葉を掛けています。
人を教え導くという事はこのような事をいうのだと思います。
お釈迦様がゴーターミはに与えたのは、気づくきっかけで自分の力で気づき変わりました。
人を変えることはできません
勿論、我が子でも変えることはできません。
口出しをしたくなりますが見守る事が一番なのでしょう
自分が気づき、体験し、納得して、始めて成長があります。
改めて今回読んでみて
私は皆様の力になりたいと思い、陽だまりの水子供養を始めさせて頂いたのですが、皆様にとって、通過点であり、力になりたいなんて 何ておごかましいことなんだろうかと
恥ずかしい気持ちでいっぱいになりました。
陽だまりの水子供養は、 赤ちゃんとお参りに来てくださっている方々とまえかけ地蔵さんとの仏縁で私は、結ぶためのお手伝いをさせていただいている尼僧なんだと気づく事ができました。
まえかけ地蔵さんに 手を合わす事で自分自身で何かを感じ変わっていくのですよね。
尊陽院が、皆様にとって 新たな一歩になれるお寺になれるよう日々精進して参りたいと思っています。
もし、今、 悩まれていたり苦しんで悲しい思いでいたりしていれば
まえかけ地蔵さんに手を合わせてみませんか
そして
自分の心と向き合ってみませんか……
気になる事があれば どんな事でも大丈夫ですよ
電話 メール ご連絡下さいね。
最後まで読んで下さりありがとうございます
感謝 伊丹 理惠