尊陽院は日蓮宗本山の1つである本法寺の塔頭(※1)で、本法寺の中にあります。
本法寺は室町時代の1436年(永享8年)に久遠成院 日親上人により開創され、その後に、
京都の様々な地を経て、天正15年(1587)豊臣秀吉の都市整備により現在地に建立されました。
また、本法寺の塔頭として、天正3年(1575年)に尊陽院は日恵上人が創立したものです。
尊陽院は昔から守られてきた苔に覆われた寺で
その入口にたたずむ『まえかけ地蔵菩薩尊』が優しいお顔で温かくお子様達を見守って下さっています。
(※1)塔頭とは大学で言う名誉教授質、会社で言う顧問質といったところでしょうか。高僧が隠居後に住居とした院のことです。
平成 19 年の桜の時、伊丹夫妻はとあるお寺を任されることになりました。
それが京都は日蓮宗の本山、本法寺にある塔頭「尊陽院」。
長い間人が住んでおらず、いったいどこから手をつけて良いのやら途方にくれるような、それはそれは古い空き寺でした。
当時は「お寺の奥さん」だった理恵さんは初めてこの場所に足を踏み入れた日、朽ちた空き寺に触れた時、「もう一度生きたい」という尊陽院の声が聞こえたと言います。
そしてこの場所の息吹を絶やすわけにはいかないという、強い使命感を覚えたのです。
ここで自分にできる「救いのかたち」とは。「祈りのかたち」とは。
理恵さんは、尊陽院での暮らしの始まりと共に、尼僧になることを決心したのです。
それから修行(勉強)に励み、人生の選択に背中を押してくれた亡き父や、恩師の言葉を思い、母でもある自身の辛い経験から、人の痛みへの救いと祈りに心を向ける「水子供養」を主とするお寺となり、お寺の奥さんだった理恵(りえ)さんは、理恵(りけい)尼僧となったのです。
水子供養を行うことで、痛みや悲しみを少しでも昇華へ導き、「いつでも会いに来てくださいね」と、それぞれに安寧のお顔の可愛らしいお地蔵さんを設置し、いつでも祈りに触れられる場所を作ったことから、全国より水子供養に訪れる人が増えると共に、尊陽院に流れる浄化の風と理恵尼僧の愛情深い人柄に触れようと訪れる人も多くなりました。
そうしてめまぐるしく走り抜けながら時は経ち、いよいよ尊陽院の老朽化が目立ち、改修工事を考えていた矢先、ひとりの美術家を知ることとなりました。
尊陽院のこれからに必要な彩が彼女から生まれるのではないかという直感から、ディレクションを依頼。
彼女の名前は mais(マイス)。
初めましてのその時から共に尊陽院の未来をとことん想像し、理恵尼僧の思いの色を丁寧に読み解いて、音に色を見る共感覚を持つ彼女はある日、「祈りの天井画」の完成の姿がもうそこにあることを伝え、そのモチーフとなる蝶について話しました。
大きな蝶のモチーフは、アサギマダラ。幻の蝶と言われ、気の遠くなるほどの長距離を移動する珍しい蝶。
これからの尊陽院には蝶がいると、mais には見えたのです。
この話を聞いて、理恵尼僧ははっとしました。
閉じていた記憶の栓が抜けたように、あることを思い出したのです。
それはまだ理恵尼僧が娘だった頃。旅先で出会ったお寺の方に
「あなたには蝶がいる。きっと尼さんになるよ。」と言われたものの、当時はお寺に嫁ぐことすら想像もしておらず、この出来事もすっかり忘れていました。
それから約 10 年後、偶然にもお寺に嫁ぎ、偶然にも尼僧になり、偶然にも蝶を纏ったお寺となり、偶然とは必然であること、運命と使命の輪郭をはっきりと目の当たりにすることとなったのです。
そしてその運命と使命に寄り添い、見守られてきたご主人でもある瑞彰上人の存在が理恵尼僧の力となり、今ここに尊陽院の新たな「はじまり」をもたらされたのです。
この強いご縁の元に、美術家 mais によって描かれた祈りの天井画には、四体の幻の蝶、アサギマダラの姿。
それは訪れる人の痛みや苦しみを優しく舞いながら救い上げ、花々と共に昇華へと導きます。
祈る思いは時に力強く、時に優しく、大きな羽で浄化の風を生み出します。
これから永く永く、尊陽院にてたくさんの人を迎え、癒し、守ることでしょう。
〒602-0061 京都府京都市上京区本法寺前町650-3
駐車場もあります、遠方からでもお越ししやすいです。
☎075-414-1500 開門 7:00~日没まで
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